上の地図は中央公論社発行、井上光貞 監訳 日本書紀 上巻の初めに載っている古代の畿内地図の一部分です。
分かりやすいように位置の目安として〔 〕内に現在地名が付いています。
古代と一口に言っても幅が広いのですが、この地図を見ると、応神天皇陵と仁徳天皇陵があって、〔大阪〕と〔八尾〕の間に長瀬堤と横野堤が載っているので、仁徳天皇時代の巨大干拓工事の後の図だと考えられます。
そもそも、縄文時代は上町台地が南から半島のように北に突きだしていて、現在の東大阪、八尾市域は河内湾だった。
それが、後に淀川の上流から流入する土砂で北側から埋まってきて河内汽水湖になる。
それがある時期に急に湖が無くなって上記の地図のように土地が現れる。
これって自然の堆積ではなくて人為的に何かしているよね。と考えて、日本書紀を読んでいると仁徳天皇時代の話で土木工事が出てくる。
ただ、その前に、この時代の背景です。
仁徳時代は倭の勢力範囲が韓国にまで及ぶようになっている一方で倭自体の直轄地を誰が治めるかで内紛が起こるようになっていた様子で、皇位継承すら素直に行っていない。
兄弟で自殺者まで出た上で応神・仁徳間で3年間の空位がある。
そんな状態で難波の高津宮に宮殿を建てるにあたっても工事の為に徴用する人民の負担を減らすために簡素な建築になった様子。
さらに仁徳天皇4年は飢饉が起きたのか民は食事にも困る状態になったようで、3年間の課役免除(非課税)政策を打ち出す一方で徹底的な経費削減を断行する。
課役免除は後に延長されて合計6年間になる。
「自分の住んでいる宮殿なんて住めたら良いじゃないか。少々壊れても良いよ。営繕管理費の予算は要らないよね。」
「食品も無駄にしたら駄目だよ。消味期限過ぎていても食べられるなら無駄に捨てないでね。」みたいな感じ。
さらに大型公共工事の発注。
渡来人の流入によって、巨大古墳の設計製造、各種土木工事、焼き物の技術等、この時期に技術的な革新が起きている。
淀川水系で茨田の堤の完成、堀江(現在の大川)で水路を作り満潮時に大阪湾から河内湖に流入する海水を停めて河内湖の水位を下げた。
これにより東大阪や八尾エリアが土地として利用できるようになる。
それまで湖だったところが土地になるから新たに出来た河内平野を流れる水路の作成。(横野堤他)。
さらにそれらを水路として利用した水運の為の整備(古市大溝)。
新たな土地での耕作の為に、ため池作成等の灌漑工事(和珥の池)他。
とこの時期に現在の大阪平野の基礎(インフラ)が出来ていく。
おそらく奈良県内の倭の直轄地は安定的に食料生産は出来ていたのであろう。
しかし、大阪はまだ、それが十分ではなかった。外交の重要拠点になってきて、人口も増えているのに食料が不足してきたのではないか?
耕作面積の増加は直接的に食料増産、年貢の増加に繋がるから人民を飢えから救い、結果的に景気が良くなって国力も増加する。政権も安定して皆、万々歳。この時期の早急に解決しなければならない課題だったと思われる。
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