5世紀頃に仁徳天皇が難波高津宮に居を置いたのは比較的目にする機会が多い。
しかし、難波宮の発掘調査の話になると、仁徳期の話が出てこない。
詳しい話が無いかと探していたら『難波宮と都城制』中尾芳治・栄原永遠男編_吉川弘文館発行
を見つけた。
この本によるとまず、応神天皇が奈良ではなくて難波に宮を置いたと言う山根節が出てくる。
この山根氏によると邪馬台国九州説を唱えていて、応神天皇の時期に東征して機内に入った形になる。
しかし、それだとそれ以前に佐紀古墳群を作っていた人達との関係性が十分に説明できない問題が生じる。
この応神、仁徳期は日本書紀に出てくるだけで、場所は確認されていない。
高津神社の下にあるとかだったら、簡単だけどもそうは行かない。
ただ、この時期から巨大古墳群が大阪に移動してきているのでここで何か大きな変化が起きたのは、想像できる。
しかし、本格的な難波京の話になると36代孝徳期になる。5世紀ではなくて7世紀中頃645年所謂、大化の改新以降の話です。
難波京は大きく分けて3期、孝徳期からの初期、天武期からの前期、聖武期からの後期となる。
初期の復復原図
後に北側に大阪城が来る。
孝徳天皇は645年乙巳の変(大化の改新)以後、難波に遷都する。
この時は10年ほどで天皇の死後は飛鳥に戻る。
前期難波京
40代天武天皇686年壬申の乱以降
彼以前は飛鳥の地で天皇が変わるたびに近くで新しい宮殿を建てて転々としていたらしい。
でも天武天皇は中国のように大きな宮殿を中心とした街を作ろうとした。この頃に藤原京の造営を手掛けるらしいが、迎賓館その他で副都として難波京を必要としたらしい。
ただ、この前期難波京は火災により焼失し、天皇自身の死亡により条坊は完成しなかった様子。
地図で見ると大阪城付近から四天王寺までその範囲に入っている。
後期難波京
45代聖武天皇の時で732年に一応の再建がされた様子。
この時期は天然痘の大流行や美濃の大地震等、天変地異に見舞われて、政情が不安定だった。
東大寺の造営を始めとして各所にお寺を作り、仏教を手厚く庇護する。
天皇自身も政治的動乱や疫病から逃れる為か居城を転々としている。
難波京は782年に第50代桓武天皇が福都制を廃止して平城京と難波京を一本化し、平安京へ遷都されることで無くなるまで続く。
どうも研究によると当初は難波京の大極殿その他の建造物を長岡京に移築するつもりだったらしい。
ただ、工事責任者の暗殺その他で上手くいかなかった様子。
10年ほどで方針転換されて平安京遷都になる。
この時代は平城京内で仏教勢力が力を持ち過ぎたのと、諸経費がかさみ過ぎて財政逼迫していたらしい。
建物の大幅改修が必要になる上に、難波津も土砂の流入で底が浅くなり、大型船の座礁事故等、河川や湾のテコ入れに多額の費用が必要になった。
今日は、ちょっと難波京について振り返ってみました。
以下は作者の妄想です。発言者は移転支持派のとある架空の人物です.
「金ないやん。どうする~。」
「改装費より場所変えて新しく作った方が安く付けへんか?」
「場所変えて一から始めたら既得権益を主張してくる仏教勢もあんまりうるさく言われへんようになるで。」
「こっちは天武天皇の親戚筋と違ごて、ひいおじいちゃんの天智天皇系列やからあっちの親せきが伝統ある建築物を潰すんか~って怒ってきても放っとこうや。」
「遷都するって、なんぼほど金掛かると思てんねん。って言う奴もおるけどなあ。」
「ほ~ら見てみい。長岡京、失敗しよったって言う奴もおるけど。」
「もう潰そ、潰そ、潰して合理化しよ。その方が絶対ええで。」
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