昨日の続きです。
青森県の三内丸山遺跡や佐賀県の吉野ケ里遺跡等、縄文時代から日本各地に人はいた。
縄文時代に出来た環濠集落も稲作が伝わって弥生時代になると、稲作のし易い場所に村を作った勢力に押されて消滅したり、もしくは文化を取り入れて住む場所を移動したりして個々の集落では栄枯盛衰が起きたであろう。
大阪でも和泉・泉大津市に渡る池上曽根遺跡のように弥生時代の遺跡が知られている。
つまり元々、日本国内で人はヤマト地域を中心に集まって住んでいたわけではない。
古墳時代にいきなり人が現れた訳でもない。
ただ、ヤマト地域に住んでいた人達が後に律令体制を確立した中心になったので、そこに古い資料が残っていたから日本はヤマトから始まったような歴史観が出来ただけである。
そこで一つの疑問。
百舌鳥・古市古墳群を作った人たちはヤマトに住んでいて「そうだ、河内にお墓を造ろう。」
と思ったのか?
巨大古墳になると1,2年で簡単に造れない。
それは新たな王が立った時から設計図を作って制作を開始しをじゅんびする。
ましてや、その関係者を埋葬する為の陪塚まで造るとするととても時間がかかる。
そんな大プロジェクトを奈良盆地に住んでいる人が山の向こうの又は海のそばでしたとは思えない。
河内エリアに王墓が出来たのは一時期このエリアの権力がヤマトエリアより権力が強くなっていたからと考える。
この時代を河内王権時代と呼ぶ。
ちなみに王墓周辺の発掘調査から出た埴輪の形式や古墳の形状調査等から制作年代の推定があり
河内王権は古墳時代中期で4世紀末、津堂城山古墳から始まると考えられる。
その後、上石津ミサンザイ、誉田御廟山、市野山、岡ミサンザイと続く。応神から仁賢まで約120年間と考える。
この章を書いた岸本直文氏によると実はこの時期は政教分離が起きていたと主張されている。
つまり、政治的権力を持った執政王と祭事を司っていた神聖王が並立していたとされている。
そこで王墓の系列を2系統に別けておられるのだが、その理由はまだ。私の理解が追い付いていないのでここでは結果だけを書きます。
上記の王墓は執政王墓であって、別系統の神聖王墓の制作年は津堂城山と上石津ミサンザイの間に、仲津山が。
誉田御廟山と市野山の間に、大仙が。
市野山と岡ミサンザイの間に、土師ニサンザイと軽里大塚が。
そして岡ミサンザイの後ろにボケ山が来る。
問題はこれらの古墳の制作年代と資料から見る天皇名の在位順が現在の宮内庁治定だと矛盾が生じる事である。
前回のテーマで『大仙古墳が仁徳天皇ではなくて允恭天皇?』
としたのは大仙を16代仁徳天皇陵、その南にある上石津ミサンザイを17代履中天皇に充てた場合、上記製作年と逆転する。
岸本直文氏は史料との検証から上石津ミサンザイを履中天皇陵で確定されている。そうするとその後に造られた大仙は仁徳天皇陵には成り得ない。氏は允恭天皇を想定されている。
大仙が允恭天皇陵だとすると、仁徳天皇陵は何処?
以下ザっと結果だけ挙げてみる。 カッコ内は現治定
津堂城山が応神天皇陵 (允恭参考地)
中津山が仁徳天皇陵 (仲姫命、応神皇后)
上石津ミサンザイは履中天皇で治定のまま
誉田御廟山が反正天皇陵 (応神)
市野山は市辺 (反正後の執政王) (允恭)
土師ニサンザイは木梨(允恭後の神聖王) (反正参考地)
岡ミサンザイが雄略天皇陵 (仲哀)
軽里大塚が清寧天皇陵 (日本武尊)
ボケ山は仁賢天皇陵で治定そのまま
河内大塚 安閑未完墓 (松原・羽曳野市間の古墳で誰の参考地かも不明)
個人的に松原市民として気になっていた。
先日、奈良県と宮内庁で合同調査をするニュースを聞いた。今後は宮内庁でも古墳の調査が少しづつでも進むようになるでしょう。
そこで新たな発見を期待します。
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